文明批評としての「煙草」:なぜ、この嗜好品は「絶滅」の危機にあるのか?現代社会の深層を読み解く異色エッセイ。谷川俊太郎、いしいしんじ、三國連太郎、高峰秀子、杉浦日向子、ヒコロヒー…愛とペーソスをプカプカ綴る、とっておきの一服エッセイ
『もうすぐ絶滅するという煙草について』:嗜好品の終焉から見えてくる、現代社会の「不寛容」と「管理」の未来
かつて、文学や映画の中でダンディズムの象徴であり、人々の生活に深く根差していた「煙草」。しかし、現代において、その存在は風前の灯火となり、「絶滅」の危機に瀕しています。筒井康隆氏の著書『もうすぐ絶滅するという煙草について (ちくま文庫あ-69-1)』は、単なる煙草論に留まらず、この嗜好品が辿ってきた歴史と、現代社会におけるその地位の変遷を深く考察することで、私たちが生きる「不寛容な時代」の正体を鋭く抉り出します。これは、煙草を吸う人も吸わない人も、等しく現代社会のあり方を考えるきっかけとなる、刺激的な文明批評です。
煙草の歴史に見る「自由」と「管理」の相克
本書は、煙草がどのようにして世界に広まり、人々の文化や生活に深く浸透していったのかを歴史的に辿ります。文学作品や絵画に描かれる煙草の姿から、それが単なる嗜好品ではなく、時には思想や反骨精神、あるいは芸術的なインスピレーションの源であったことを示唆します。しかし、時代が下るにつれて、公衆衛生の観点から煙草への規制が強化され、ついには「悪」として社会から排斥されるようになっていく過程が描かれます。
筒井氏は、この煙草を巡る変化を、個人の自由と社会的な管理・統制との間の絶え間ない相克として捉えています。かつては個人の嗜好として広く受け入れられていたものが、科学的な知見や健康志向の高まりとともに、いかにして「排除すべきもの」へと変貌していったのか。そのプロセスは、現代社会が「安全」や「健康」の名のもとに、いかに個人の自由を狭め、人々の行動を管理しようとしているのかを浮き彫りにします。
「不寛容な社会」への警鐘:なぜ私たちは「排除」を求めるのか
本書の核心にあるのは、「不寛容な社会」に対する筒井氏の強い警鐘です。煙草の排斥運動は、単に健康問題に終始するものではなく、異質なものや、多数派にとって「不都合」なものを徹底的に排除しようとする現代社会の傾向を象徴していると彼は論じます。
喫煙者に対する過剰なまでのバッシングや、喫煙スペースの極端な制限などは、果たして本当に「健康のため」だけなのか。それとも、個人の自由な選択を認めず、画一的な価値観を押し付けようとする「管理社会」への傾倒ではないのか。筒井氏は、ユーモアを交えながらも、時にシニカルな筆致で、私たち自身の内なる「不寛容さ」や、社会が向かう「監視と管理」の未来に疑問を投げかけます。煙草が「絶滅」するということは、その背後にある、より大きな自由の喪失を意味するのではないかと。
文明批評家としての眼差し
筒井康隆氏は、SF作家としての顔を持つ一方で、鋭い文明批評家としても知られています。本書は、その批評家としての彼の眼差しが遺憾なく発揮された一冊と言えるでしょう。煙草という具体的なテーマを通して、現代社会が抱えるより根源的な問題――自由と統制、個人の尊厳、多様性の受容、そして科学と倫理のバランス――について、深く考えさせられます。
難解な専門用語を使うことなく、軽妙な語り口で展開される議論は、読者を飽きさせません。しかし、その奥には、社会に対する深い洞察と、人間存在への問いかけが隠されています。煙草を吸わない人にとっても、本書は、私たちが当たり前だと思っている社会のルールや規範が、いかにして形成され、そして変化していくのかを理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるはずです。
まとめ:「煙草」を通して「私たち」を問う
『もうすぐ絶滅するという煙草について』は、一見すると煙草に関するエッセイですが、その実態は、現代社会が抱える普遍的な問題を浮き彫りにする、珠玉の文明批評です。煙草の終焉という現象を、私たち自身の価値観や、社会のあり方を問い直す鏡として提示する筒井氏の筆致は、読者の心を揺さぶります。
この本を読んだ後、あなたはきっと、街中で見かける「禁煙」のサインや、人々の行動、そしてあなた自身の「寛容さ」について、これまでとは違う視点を持つことになるでしょう。煙草は本当に「絶滅」すべきなのか? その問いの先には、私たちが未来に向けて築き上げていく社会の姿が、鮮やかに浮かび上がります。